「怒りとは未熟さの証明である」
心理学では、怒りは「第二感情」であると言われていて、怒りの前には必ず「第一感情」が存在するんですよね。
「第一感情」には次のようなものがあります。
- 不安
- 不快
- 危険
- 恐怖
- 恥
怒るときの第一感情はネガティブな感情です。まあそうですよ。「嬉しいとき」「楽しいとき」に怒る人はいませんから。
人はやましいことがあると、意識、無意識に関係なく、どうしても隠さなくてはいけない、人に知られてはいけない「弱点」となり、この弱点が「誰かに知られないか不安」「バレたら怖い」「恥をかきたくない」など、ネガティブな第一感情の素になるんですよね。
だから、やましいこと、本当のことを言われると第一感情の素を刺激され、不安定な自己(実は自信がない状態)の防衛的現れ(プライドを守る行動)として怒るってなるんです。
ただ単に「怒るってことは図星だよね!」は賛否わかれるところだけど、「やましいことを指摘されて怒る」ってのは概ね図星と言ったところ。やましいことを言われて怒るってのは、隠している部分を自らアピールしているようなものです。
そうなんだ!弱い人ほどプライドが高い
プライドが高い人ほど「強くて自信たっぷり」のイメージがありますよね。
実はこれって逆なんです。
プライドって「弱さを守るための防御壁」なんです。弱いから高くて頑丈な壁を作らないといけない。弱いから壁の中に隠れないといけないってなるんですよね。
プライドの高い人って普段から横柄な態度をとったり、機嫌が悪かったりしますよね。これって心理的バリア(プライドの壁)を張って「臆病」で「小心者」な自分を隠そうとしてるんです。
自己愛者の偏屈
自分を愛することはとても大切なこと。でも、自分を愛する過程で大切なのは、他者から想われること、そして他者を愛することなんですよね。
この過程が欠損している場合、ありのままの自分を愛することができずに、偽りの優越感に浸り、自分は素晴らしく特別な存在なのだと虚像を創り出しちゃいます。
プライドが高い人、すなわち「やましいことを指摘されて怒る人」は、自分は素晴らしい人間なのだから他者から認められるべきという「承認欲求」が抑えきれない傾向にあるんだよね。心理学的に言えば「他者から認められるべき」の思考は、潜在意識レベルだと「認められていない」と言うことになっちゃいます。
偽りの「自分は素晴らしい人間」と潜在意識の「自分は認められていない」の矛盾は、ますます本心の弱さを隠そうとしたり、自分の意見を押し通そうとするかたくなな態度「偏屈」になる。私はこれを「自己愛者の偏屈」と呼んでる。
「自己愛者の偏屈」は他者への攻撃性になる。
プライドが高い⇒人の意見に耳を傾けない⇒人が離れていく⇒承認欲求が満たされない⇒周りの人が悪い(自分は悪くない)⇒他者への攻撃⇒⇒⇒プライドが高くなる
自己愛者の偏屈に陥った人は他者からの指摘に対して、「素晴らしい私に意見するとは許せない」「私のプライドを傷つけるなんて許せない」と頭に血が上り、短絡的に怒鳴ったり、大騒ぎしたり、泣き喚いたりして、力ずくで相手を屈服させようと攻撃的になるんです。
だからプライドの高い人は短気なんですね。
自己愛者の偏屈って治んないですよ。周りがなんて言ったって。だって、聞く耳持たないから。だからね、もう自分で気がつくしかない。今までに何回も気づくチャンスはあったと思うよ。だけどね、その度に「悪いのは俺じゃない」って他者のせいにしちゃうんだよね。
第一感情からくる監視
プライドの高さって自信のなさからくるんですけど、自信のない人は「どう見られているのか」「やましいことに気がつかれてないだろうか」と気にしているんだよね。
だからやましいことがある人は常に周りを監視するんです。
「人を監視する暇があるなら自分のことをしろよ」って普通の人は思うのに対し、周りを監視する人は「気になって気になってしょうがない」気持ちでいっぱいで、他のことが手につかないんです。
この監視も、不安定な自己(実は自信がない状態)の防衛的現れ(自分のプライドを守る行動)なんです。
高いプライドの壁の隙間からキョロキョロと周りの様子を伺い、自分に都合の悪いことを素早く見つけ先制攻撃を仕掛ける。相手の弱みを握ってコントロールしようとしたりするんだよね。
SNSがかなり普及したんだけど、プライドが高い人はフォロワー数が少ない。なぜって?プライドが高いが故に、自分からフォローすることがないし、「お前のほうからフォローしてこいよ」ってスタンスだから。しかも自信がないからありきたりな投稿ばかりで「自分の意見」がない。誰もこんな人には魅力を感じないから、知り合いが見かけてもスルーしちゃう。
もっぱらSNSは監視のためのツールになってる。「俺の悪口を言ってるヤツはいねーかー」ってナマハゲみたいに。
やましいことを指摘されて怒る人は「未熟」
「怒りとは未熟さの証明である」
自分の「やましいこと」「間違っていること」「ダメなところ」を指摘されて怒る人は、暴力とまでいかないにしても、怒鳴ったり、大騒ぎしたり、泣き喚いたりなどして、自分の主張を押し通し自分を正当化しようとします。
これは、暴力的な「力」の行使と同義であり、暴力的なコミュニケーションに他なりません。
暴力的なコミュニケーションは、同等以下に向かって一方的に行わられる。要は、支配的関係性において、権力を武器に怒りの力で相手を押さえつけようとする、大人として未熟な、そして愚かな態度なのです。
やましいいことを指摘されて怒る人は、「悪いあの人」「かわいそうな私」と自己愛者の偏屈に陥り、弱い自分自身と向き合う勇気を持ち合わせていない。だから「これからどうするか」を考えられないのです。
怒りは「その場しのぎ」の短絡的なコミュニケーション。怒ったところで何の解決にならないことは誰もが知っている。だがその感情を抑えられないということは、「人間として未熟である」と露呈しているのです。
自分の弱さを隠し、自分を大きく見せるはずのプライドは逆方向に作用します。
怒りの暴力的コミュニケーションは、相手に恐怖を与え萎縮させると同時に、「未熟な人間」という印象を与える。そこには「尊敬」は存在しない。あるのは「軽蔑」だけです。
未熟な人は、怒ることで自らの隠したい弱さを露呈しています。だから「やましいことを指摘されて怒る」ってのはある意味「図星」なんですね。
それでもあなたは怒りますか?