「怒るとはお漏らしである」感情を垂れ流さない思考法

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スマホやSNSの普及により、お漏らしをする大人が目立つようになっている。

最近ではホテルの従業員に怒りをぶちまけ、土下座を強要した自称不動産会社の社長が話題に取り上げられていた。

その映像を見た私は「大勢の目の前で盛大にお漏らしをして恥ずかしくないのだろうか」と感じたのである。

ここまでいかなくても、私たちの周りには怒るという感情を我慢しきれずに漏らしてしまう大人が多いのは事実。

お漏らしも癖になれば快感になるのか、もしかして羞恥プレーにハマっているのか。

今回この記事では、羞恥プ・・・もとい、怒るとは感情のお漏らしである話と、感情を垂れ流さない思考法についてご紹介する。

目次

怒る感情がお漏らしである理由

正直イラっとすることは誰にでもある。

これは尿意と同じで、大抵の大人は我慢してその場で漏らすことはない。

しかし怒りをぶちまける人は尿意を感じたら、その場で垂れ流してしまうのである。

すぐに怒る人はお漏らしをする行為が気持ちいいのか、お漏らしが癖になる。

今までは隠れてお漏らしをしていたのに、段々と大胆になって周りに大勢の人がいてもなりふり構わずお漏らしをするようになる。

だから周りの人はたまったものじゃない。いつ自分にお漏らしが降りそそぐかヒヤヒヤしている。

自分をコントロールできない勘違いした人間

怒るというお漏らしに慣れてくると、本当は感情の蛇口をコントロールできないだけなのに「自分は強い」「自分は偉い」と勘違いしてしまう。

要は膀胱に伸縮性がなく蛇口が壊れてしまっているため、怒りの感情を溜めておけないのである。

だから少しでも気にくわないことがあると怒りが「ジャーっと」漏れてしまうのだ。

勘違いした人間は、このお漏らしが強さの証であり、お漏らしが快感になっているのだ。

怒るという感情は承認欲求の代表格

他者から認められたい気持ちが強い、これが承認欲求である。

誰もが持つ感情ではあるが、承認欲求が人一倍強い人間は自分の思い通りにならないとイライラし、お漏らしをかけることで他者をコントロールしようとする

大抵の場合、誰かに怒りというお漏らしを掛けられると気持ちが萎縮してしまい、お漏らししている人の言うことを聞いてしまう。

これが店員さんとお客さんの関係ならなおさらである。

「お漏らしすることで他者が言うことを聞いた」すなわち自分を認めてくれたと勘違いして、しょうもない欲が満たされるのである。

しかし承認欲求は留まることを知らない。だからすぐに怒る人は、欲を満たすためだけに怒るという感情のお漏らしを欲を満たすためだけに繰り返すのだ。

お漏らしをする大人はまるで動物のようだ

怒るという行為は実は何も生み出さないのである。

ある程度成熟した大人なら理解ができると思うが、すぐにお漏らしをする未熟な大人には理解できない。

駄々をこねる子ども、いや動物レベルかもしれない。

動物と同じように、感情と理屈を切り離して考えられないのだから。

感情を垂れ流さない思考法

私たちは怒るというお漏らしをしないためにも、感情を垂れ流さずにコントロールする思考法を学ぶ必要がある。

そもそも怒り、不安、焦り、緊張などの感情は、人間が生きる上での「苦」とされている。

今、怒るというお漏らしに快楽を覚えている人も、実は本人の知らないところで苦に支配されている。

いずれにしても「苦」の感情は、人生を生きる上で必要のないものである。

怒りをそのまま理解する

怒りを理解するとは、自身が怒りを覚えた時、頭の中で「私は今、怒っている」と考えるだけという至ってシンプルなものである。

自分の感情を自分自身が客観的に見ることで、驚くほど冷静に捉えることができるのだ。

怒りをのみ込むこともせず、外に出すこともせず、怒らないようにしようと考えず、心の中にあるそのままの感情に目を向けてただ理解する。

怒りとは自分が求めるものが、外側の何かに心が反応して生まれるものである。

素直に自分の心の反応に目を向けるだけで「自分は何に対して怒っているのか」「自分は何を求めていたのか」を分析することが可能となる。

そうすれば実は大したことのない怒りだったことに気づき、今までの沸騰しかけていた感情はスッと落ち着きを取り戻すことができるのである。

自分の思い込みを捨て、善悪の判断をしない

怒りが生まれる原因として、自分は善で相手は悪という前提がある。

すぐに怒りを覚える人の多くは、自分が絶対正義と思い込み「正義中毒者」に陥っている可能性が高い。

簡単に言えば、自分の中の正義を怒りで押し付けるというものだ。

すべて自分が正しいとは思い込みであり、妄想にすぎない。

世の中には善悪の判断がつかない物事はいくらでもある。常識なども人それぞれ認識の違いがある。

自分と相手に意見の相違が生まれたら、思い込みを捨ててみるのも面白い。

そうすれば相手を否定することもなくなり、怒りの感情は生まれないのである。

自分にも相手にも期待しない

過剰に期待をするとどうなるのか。

それは「いとも簡単に裏切られる」のである。

期待とは「自分はやれる」「相手はやってくれる」言わば見返りを求めた妄想にすぎない。

期待を裏切られた先には、怒りが沸々と沸いてくる。

だから怒りの原因は自分が作り出していると言っても過言ではない。

目の前にあることを無心になってやる、ただそれだけでいいのだ。

相手の怒りに反応しない

相手が自分に対して怒っていても反応してはいけない。

相手の感情に反応するということは、相手が差し出した毒を食らうのと一緒である。

私が読んだ本の中に次の一文があった。

もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。

わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

引用元:反応しない練習

要は相手の怒りに反応してしまうと、お漏らしをする未熟な人間と一緒であるということだ。

まとめ

今回のこの記事は、ブッダの超・合理的な考え方をわかりやすく解説した「反応しない練習」という本を参考に書いた。

幸せに生きるということは「苦しみを取り除く」ことであり、苦しみを取り除く考え方はとてもシンプルである。

怒るという行為も苦しみの一つ。

私たちはお漏らしをしないように、シンプルな思考法によって幸せに生きていけるのである。

もし街中でお漏らしをしている人を見かけたら「口から糞尿が漏れてますよ」と声をかけてあげましょう。

そうしたら相手はもっと怒り出すことでしょう。

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