人は生まれながらにして不平等である。これは紛れもない事実。
当たり前であるが、生まれた国や地域、家庭環境、男か女かでその後の人生において配られるカードは変わってくる。
だから私とあなたでは、配られるカードに同じものはない。
不平等に配られたカードを自分自身が取捨選択して勝負をしていく、これが人生である。
今回この記事では、平等と不平等は見方を変えれば同じであることや、平等を叫ぶ人がなぜエゴイストと感じるのかなど、私の主観でお話したい。
はじめに
この記事では「綺麗事」を言うつもりは一切ない。
自分の感じていることを素直に述べていく。異論もあるかと思うが「後で聞く」から、最後まで読んでみて欲しい。
それと私は平等主義者でも差別主義者ではないし「世界の平和を願う」なんてこともない。
まあ言ってみれば何者でもない普通のおっさん。
だが自分の娘が産まれてから20年近く、毎月ユ○セフに千円ずつ募金をしている。
普段は募金をしていることも忘れているが、何かの役に立っていると思っている。
さて、私たちはあらゆるシーンにおいて「世の中は不平等だ!」と感じることが多々ある。
この不平等という感情がどう生まれるのか、少し深掘りして考えてみたことがある。
不平等というのは自分が置かれている境遇や立場が「優越か劣等か」で発生し、とりわけ劣等感が強い場合に不平等と感じる。
自分が優遇されいる場合、他者から見て明らかに不平等であっても「私は優遇され過ぎている、不平等だ!」と言葉にする人はいないであろう。
簡単に言うなら平等であることよりも、得はOKで損はイヤだってことである。
考えれば考えるほど「平等」が何かわからなくなる
平等とは差別をしないということ
「平等とは」を検索すると ”差別や偏りがなく、みな等しいこと” と出てくる。
差別はダメだ。ある特徴だけで不当な扱いを受けることはあってはならない。
ここまでは私の頭脳でも理解はできる。
しかし「差別をなくそう!」ならすぐに意味はわかるが「平等を目指そう!」と言われると訳がわからなくなる。
だれから見て平等なのか。
自分なのか相手なのか、それとも客観的な何かなのか。平等は見る人の基準によって変わる。
「見る人によってコロコロ変わる」果たしてこんなものが平等と呼べるのであろうか。
今、ひとり歩きしている「平等」という言葉は、キレイな羽衣をまとったエゴイズムではなかろうか。
平等ではなく公平のほうがしっくりくる
似て非なる言葉「平等」と「公平」
簡単な例え話を一つ紹介する。
同じ会社で働くAさんとBさん、年齢も勤続年数も役職もほぼ同じである。Aさんは働き者でそれなりの仕事量をこなし成果も上げている、一方のBさんは態度だけは一人前だが仕事量はAさんの半分以下。
平等のパターン:この2人、年齢も勤続年数も役職も同じだから給料も同じ。
公平のパターン:仕事量が違うので、もちろん給料はAさんが多く、Bさんは少ない。
私たちがAさんの立場だとすると、平等のパターンは不平不満が爆発するに違いない。
だが平等というのはこういうものだ。とは言っても納得はできない。
Bさんからすれば損だろうが、公平のパターンのほうがお互いが納得できる。
しかし世の中は公平よりも平等を重んじるから訳がわからない。
スカートを履かない男たち
不平等の代表格「ジェンダー不平等」
世界中の女性から職場でのパンプスやスカートなんて履きたくないという声が上がっているそう。
「よし、わかった。明日から女性もスーツにYシャツにネクタイに革靴でもOKな」
「で、男性はパンプスにスカートでもOKな」
このように就業規則を変更したらどうなるのか。
たぶん女性からはブーイングの大合唱が聞こえてくる。
もちろん私も男のスカート姿なんか見たくもないし、スカートを履いていくる男性がいないことを願う。
フェミニストが求めるのは男女平等ではない
女性のスーツにネクタイや革靴、男性のスカートやパンプス。
私の狭い見識では、これが男女平等である。
男女平等を叫ぶ「フェミニスト」であっても、男性のスカート姿を見たら引くこと間違いなし。
「明日からスーツにネクタイに革靴な」と言われて喜ぶ女性もいない。
男から見れば確かにヒールの高い靴やスカートは何かと不便だと思うことがある。
私もスカートやパンプスは履きたくない。
では平等に男性と同じスーツにネクタイに革靴ならOKなのかと言うとそうじゃない。
要は男女平等とかではなく、スカートやパンプスを強制されるのがイヤ、服装を自由に選択できる特権が欲しいのである。
平等を一方的に主張しても議論にならない
平等を作り出す方法は3種類あると考える。
- 自分の基準を押し付けるか
- 相手の基準に自分を合わせるか
- 違った基準を作るか
私はスカートやパンプスは履きたくない。男女平等だと言われても。
男女平等だから男性はスカートやパンプスを履くべき、女性はスーツにネクタイに革靴。
①番と②番の基準では誰も幸せになれない。いくら平等だと言っても。
女性の「スカートやパンプスは履きたくない」の声は理解できるが、一方的に主張をしてもただの「わがまま」に聞こえてしまう。
「スカートは気を使うしパンプスは足が痛くなるし大変なのよ、でも男性のスーツやネクタイも苦しそうだし革靴も足が痛くなるよね」
「だから男女とも、もっと快適な服装にしない?」
こんな感じで主張すれば、お互いにとってプラスだし受け入れやすくなる。
平等と不平等は表裏一体
差別はあってはならない。これは大前提である。
しかしすべて平等にすれば万事OKか?
「答えはNO」
少し前にお話したAさんBさんの平等と公平である。
今まで真面目に働いてきたAさん、めんどくさい仕事から逃げてきたBさん、周囲の人々はこの事を理解している。しかし会社の評価は平等である。
年功序列制度が残っている会社では、仕事量が多かろうが少なかろうが給料は一律。
ある日、怠け者のBさんが偶然にも普段より頑張った結果、Bさんにしては高い利益を出した。
Bさんは会社に評価され、なんとAさんよりも先に出世してしまったのである。
俗に言う「不良がちょっといいことをして、実はいいヤツと勘違いされた効果」
会社は平等な評価をしたつもりでも、Aさんとっては悪い意味で不平等な評価、Bさんにとっては良い意味で不平等な評価である。
Aさんが真面目に働くのは当たり前であり、不真面目なBさんが頑張ったことは評価に値する。
これが平等で不平等な世の中の声であろう。
エゴイストは不平等がお好き。だから平等を叫ぶ
「ちょっとなに言ってるか分からない」
私もなに言ってるのか分からない。なんとなく伝わればいい。
「エゴイスト」とは、他人の不利益なんかどうでもよく、自己の利益だけを追求する人間のことである。
すなわち「ジャ○アン」と同義である。
ジャイ○ンの有名なセリフ「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」これがすべてを物語っている。
エゴイストの代表であるジ○イアンは、平等の名のもと欲しいものをぶん取る。しかし自分のものは分け与えることはしない。
これが現代の平等を写し出した鏡である。
しかしドラ○もんには、ジャイア○は必要でありいいキャラクターでもある。
みなさん、○ャイアンの○の位置がすべて違うことにお気づきだろうか。そんなことはどうでもいい。
本来、平等とは差別をなくすことである。
エゴイストの主張する平等には何が隠されているのであろう。
それは自分の欲望と利益である。
「イケメン」「イクメン」に女性は怒るべき
「イケメン」「イクメン」と呼ばれる男性がいる。
私は正直腹ただしい。
顔が良くてスタイルの良い女性をアニメ化したポスターが問題になっている。
女性の性的搾取が問題になっているらしいが、男性キャラクターも大概イケメンである。
なぜイケメンの描写には怒らない。
女性差別を訴える女性には、男性差別の描写にもっと怒りの声を上げて欲しい。
なぜなら我々ブサメンは悔しいから。
イケメンは生まれたときから顔が良く、その後の人生得することばかり、一方我々ブサメンは・・・不平等である。
冒頭に書いた「人は生まれながらにして不平等」とはこのことである。
だがイケメン好きの女性に一言申し上げたい「イケメンは性格が悪い」、いやそうであると願いたい。天に二物を与えられたら最強じゃねえか。
ブサメン代表として、それだけは許せない。
ごめん。話がそれた。
次はイクメンの話であるが、イクメンとは育児をする男性のこと。
イクメンがモテハヤサレルことに違和感を感じるのは私だけであろうか。
育児は両方が行うもの。
なのに少し育児を手伝っただけで「イクメン」と呼ばれるのはおかしい。
テレビで紹介されるイクメンは大体「爽やか系イケメン」で、街の女性の声は「ステキ」「カッコイイ」である。
待て。ステキ、カッコイイはイケメンだからか?イクメンはどこにいった?
これだからイケメンは嫌いなんだ。これだから不平等なんだ。
ごめん。話がそれた。
話をイクメンに戻そう。
私も昔はイクメンだった。しかし「ステキ」「カッコイイ」なんて言われたことがない。
なぜならブサメンだから。
育児は授乳以外ならすべてこなせる自信がある。自信があるというよりも実際にやってきた。
ミルクから離乳食まで食べさせ、おむつ替えや入浴、魔の2歳児と呼ばれる時期には夜泣きがひどく、一晩中抱っこしたり夜中の海にドライブに行ったこともある。
私は日曜日が休みだったが、奥さんは仕事、保育園は休み、朝から夕方まで付きっきりで育児をしたものである。
今では都合のいいように使われる身。昔が懐かしくて涙が出る。
私も昔はイクメンだった。しかし「ステキ」「カッコイイ」なんて言われたことがない。
なぜならブサメンだから。
イクメンのイケメンの旦那さんを持つママさんは、少し育児を手伝っただけでイクメンと呼ばれ、ニヤニヤしているイケメンの旦那さんを見てモヤモヤしているであろう。
それは不平等だからである。
だから世のママさんたちは、イケメンとイクメンに怒るべきである。
不平等に配られたカードで勝負する。これが人生
人は生まれながらにして不平等である。これは紛れもない事実。
当たり前であるが、生まれた国や地域、家庭環境、男か女か、イケメンかブサメンかでその後の人生において配られるカードは変わってくる。
だから私とあなたでは、配られるカードに同じものはない。
不平等に配られたカードを自分自身が取捨選択して勝負をしていく、これが人生である。
差別は許されない。
これは大前提であるが、すべての人が同じ土俵で勝負できるはずはない。
平等という下駄を履かせてもらっても、女性と男性、イケメンとブサメンでは、持っている能力が違うのである。
だから不平等という多様性を武器に、私たちは勝てるところで勝負をすればいい。
私はイケメン俳優になることはできないが、ブサメン俳優になることはできる。
そもそもイケメンとブサメンでは、世の中のニーズが違うのだから。
平等を叫んで下駄を履かせてもらっても、それはエゴイスト。他者からみれば不平等である。
平等と不平等は表裏一体。
私はブサメンだからイケメンと同じ土俵に上がることはない。
ブサメンは顔以外のカードで勝負するのである。