「子どもたちの罪」子どもの心に呪いをかける日本の貧困

「貧困」と聞けば、世界の片隅にあるどこかの国の話。

日本に暮らす私たちは多少の貧富の差はあれど、貧困とはほど遠い生活をしていると思っていた。

それもそのはずだ。

いわゆる発展途上国の貧困と日本の貧困では基準が違う。

発展途上国の貧困は、生きることの基準を下回っていること、これを「絶対的貧困」と呼ぶ。一方、日本の貧困は、国内の平均的な暮らしの半分を下回っていること、これを「相対的貧困」と呼ぶからだ。

かんたんに言えば日本の貧困は、生きることはできるが、ほかの家庭と比べて貧乏だということ。

日本財団の調査によれば、日本の子どもの7人に1人は貧困であると言われ、先進国の中でも最悪の水準とされている。

「生きることができればいいじゃないか」と思う方もおられるかもしれない。

確かに生物的な視点から見れば「生きる」ことができればそれでいいのかもしれない。しかし、「生きることができればいいじゃないか」と思う方は、自分の子どもに「空腹でも我慢しろ」「学校なんか行かなくていい」と言えるだろうか。

私は経済や政治に詳しくはない。

だが、子どもの貧困を目の前に「心がチクチク痛む」、子どもの貧困を目の前に「もはや日本は後進国」と強く肌で感じる。

貧困に直面する子どもたちには呪いがかけられている。子どもたちの力ではこの「貧困の呪い」をとくことは難しい。

この記事では、「日本がどうのこうの」と語るつもりはない。ただ、日本に暮らす子どもたちが笑顔で過ごせる明日を望み、私の個人的な「親心」でなんとか子どもたちにかけられた呪いをとけないものかと考え、話をしたい。

目次

貧困という呪いの連鎖

今の日本で「空腹を我慢している子どもがいる」「貧困で学校に行けない子どもがいる」、にわかには信じられないが現実の話である。

私が「貧困の呪い」と言うのにはわけがある。

子ども貧困は、すなわち親の収入が少ないこと。なぜ親の収入が少ないかと言うと、親の親の収入が少ないからだ。貧困は親から子へ受け継がれるもの。

子どもたちが好き好んで貧困になったわけではない。だから呪いと言う表現を使う。

カエルの子はカエル

貧困は親から子へ連鎖する。

貧困を例にすると分かりにくいので、裕福な家庭を例にする。

たとえば、会社を経営している親のもとに生まれた子どもは、将来、親の会社を継いで経営者になる可能性が高い。政治家の家庭に生まれた子どもは政治家になる可能性が高い。医者の子どもは医者になる可能性が高い。

要は、高収入を得ている親の背中を見ている子どもは、思考も行動も、そして生活も親が基準となる。だから自然と高収入を得られる職業につく可能性が高い。

貧困家庭はこの逆となる。カエルの子はカエル。

もちろん例外もあるが、小さなときから身に沁みついたマインド、これこそが呪いの正体なのだ。

思考の箱

先ほどのマインドに続く話だが、貧困家庭に生まれた子どもには思考に制限がかかる。

家にお金がないことは、子どもにも理解できる。なぜなら、日本は裕福な家庭も平均的な家庭も貧困の家庭も、すべて同じ環境で生活をしているからだ。

「うちは貧乏だ」と理解した子どもは、欲しい物があっても、やってみたい習い事があっても「お金がない」を理由に諦める。

これを繰り返すうちに、お金のかかることへの思考は制限され、考えることもしなくなるのだ。

現代の日本は、なにをするにしてもお金がかかる。

だから、裕福か、平均的か、貧困かで思考の箱の大きさが変わるのだ。

この思考の箱の大きさによって、大人になったときに大きな違いがでる。

大きな箱を持った人は「より贅沢に暮らすためにはどうするか」を考え、中くらいの箱を持った人は「安定した生活のためにはどうするか」を考える。小さな箱を持った人は「食べるためにはどうするか」しか考えられない。

無の選択肢

貧困家庭に生まれた子どもは、もはや選択肢が無いと言っても過言ではない。

人間は、多くの選択肢の中から自分の好きな選択ができることに幸せを感じる。

たとえば、スイーツショップのガラスケースにならぶ美味しそうなケーキ。1,000円あれば好きなケーキを選ぶことができるし、500円のケーキを二つ買うこともできる。700円のケーキと300円のドリンクを買うこともできる。

お金があることで多彩な選択が可能になる。ワクワクした幸せを実感することができる。

しかし、貧困家庭に生まれた子どもは、そもそもスイーツショップのガラスケースに並んだケーキを買うという選択すらできない。

貧困による無の選択肢は、生まれたときから最期を迎えるときまで続く。選択肢が無いのだから、貧困から抜け出す選択もできないというわけだ。

心を喰われた子ども、笑顔は消える

貧困が子どもの心身に大きな影響を与えることは言うまでもない。

日本の相対的貧困は、見た目だけではわからない。普通の服を着て普通にスマホを持ち、普通に生活をしているようにも見える。

しかし、家に帰ればおやつもジュースもなく、食事は一食分のインスタントラーメンを分けて食べる。貧困家庭はひとり親である場合が多く、たった一人の親は働きづめで家にはいない。食事の準備や洗濯、下の子の面倒を見なくてはならないし、宿題を終わらせるのは深夜になることもざらにある。夜は空腹でよく眠れない。

この話は、けして大げさに言ってるわけではない。

私の娘の同級生にも、同じような境遇の子どもがいる。

多感な心は、静かに確実に壊れていく

今の時代、貧困家庭に生まれた子どももスマホを持っている。SNSにもアカウントを持ち、日々、同級生の「家族で旅行に行ったよ」「〇〇店のスイーツを食べた」「欲しかった〇〇のクツを買ったよ」など、鮮やかな投稿を目にしている。

スマホの普及により、自分と他人とを比べる機会が多くなった。大人でも「自分は情けない」「なんで人はいい生活をしているんだ」と卑屈になったり、嫉妬したりする。

子どもの心は大人が思う以上に敏感。

子どもたちは、どうしていいのかわからない現状に漠然とした不安を抱え、豊かになった社会の陰に身をひそめるようにうずくまり小さく震えている。

友達の家庭、自分の家庭、その広がるギャップに、多感な心にはチクリチクリと針が一本また一本と刺され、静かにそして確実に壊れていく。

小さな心からにじみ出る血は、見えない涙である。

子ども心を失った、笑顔が消えた

しょうもないことで喜び、しょうもないことで笑う。純粋無垢な笑顔は、子どもの証である。

子どもの笑顔は幸せそのものであり、明日への希望となる。

貧困にさらされている子どもからは「本当の笑顔」を見ることはできない。どこかぎこちなく、どこか寂しさを感じる。作り笑いの後には、うつむき加減な大人びた真顔が残るだけだ。

貧困は「子ども心」を喰う。

子どもなのに子ども心を失えば、子どもでも大人でもなくなる。

心も体も成長する時期に大切なのは笑顔。心を失うことは笑顔を失うこと。

7人に1人の子どもから笑顔が消える。

これが本当に豊かな国「日本」なのか。

子どもたちの笑顔を守る、これが大人の役目

私たち大人は、自分が守られること「権利」ばかりに目がいき、だれかを守ること「義務」を忘れている。

子どもは大人の支援なしでは成長できない。だから、大人全員で子どもを守ることが役目であるはず。

難しい話ではない。

たとえば、現役世代2人で高齢者1人を支える時代。これに比べて、貧困に直面している子ども1人に対し、大人50人で支援できるのだから実は難しい話ではない。圧倒的に大人の数のほうが多いのだから。

新しい色とりどりのランドセルを

私が子どもころは、男の子が黒、女の子が赤の2色のランドセルだった。

今は、大型ショッピングモールに行けば、20色を超えるランドセルがある。しかし、ランドセルは数万円もする高級カバン。

生活に困窮する世帯では、このランドセルを子どもに選ばせる余裕はない。親戚からお古をもらったり、メルカリなどで出品されている安い中古品を買うのがやっとだろう。

なぜ、ぼくは(わたしは)ランドセルの色を選べないの?

新一年生。

これが子どもたちが「無の選択肢」に直面する最初なのかもしれない。

夢と希望の始まり、せめてランドセルの色は子どもたちに選ばせてあげたい。新しいランドセルを抱え喜ぶ顔が見たい。

子どもたちに時間を

娘の同級生はたびたび部活を早退するという。

理由は、下の子の面倒を見たり、家事をしなくてはいけないから。

貧困家庭に生まれた子どもは、時間の制約を受けている。学ぶ時間も、遊ぶ時間も、そして眠る時間も少ない。

「時間は命そのもの」

とくに子どもたちにとっての時間は、どれも未来への投資。

遊ぶことも、ゲームをすることも新たな発見につながる。それが経験にもなる。眠る時間は身体の成長に欠かせない。

どの時間も子どもたちには学びとなる。

下の子の面倒も、お父さんお母さんのお手伝いも必要かもしれない。だが、それを子どもの仕事にしてはいけない。

子どもにはもっと自由に、時間を使わせてあげたい。

子どもたちの罪

だれもが子どもだった。

まわりもみんな貧しい暮らしをしていた。そんな中にも笑顔があった。みんなが夢と希望を胸におとなになり、日本という豊かな国をつくった。

「子どもたちの笑顔は、未来を創造する」

いつしか大人たちは「子ども心」を忘れてしまった。子どもの存在を忘れてしまった。

格差の広がりは、後退を意味する。

大人たちが子どものころ夢見た日本は、子どもたちがうずくまり小さく震えている、そんな格差のある国だったのだろうか。

そんなことはないはずだ。

子どもたちが幸せな国は、大人も幸せ。なぜ、こんなあたり前のことを私たちは忘れてしまったのだろうか。

だれが悪い?大人か?政治か?社会か?

そんなことはどうでもいい。ただ、これだけは言える。

「子どもたちに、罪はない」

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